1藤迫茶園の歴史と考え方 2生産地 3生産方法 4加工方法 5情報公開(エビデンス)

1 藤迫茶園の歴史と考え方


化学的なものを使わない

その決意と共に歩んだ当茶園の歴史

初代茶匠の藤迫綱雄は、終戦後まもない1946年、熊本県の南西部に位置する球磨郡相良村にてお茶園を開始しました。

 

霧の里としても有名なこの土地は、四方を700メートル以上の山々に囲まれた、昼と夜の温度差が極めて高い盆地で、お茶の生産には大変適した土地です。その際、日本に古来より生き続けている「在来種」の「種」を100俵貰い受け、70戸の家族で実生栽培(種から栽培する方法)することでスタートしました。

 

しかし実生栽培までこぎ着けた家族は30戸。お茶の芽が出て、商品化出来るかどうかというところまで頑張った農家が3戸。 実に96%が途中で断念しました。実生栽培は本当に難しく、芽が出るかどうかも問題ですが、大きく成長し茶摘みが出来る状態にするのになんと「15年」かかります。


ようするに、15年間は商品化できない、それどころか、お茶園の維持の為に多額のお金を必要とするということです。

 

初代茶匠の綱雄は、存続の為に、東北へ土木関係で出稼ぎに10年以上行き続けました。

現在、日本国内において、実生栽培を行っている茶農家は皆無に近い状態です。

 

実勢栽培は育ちも遅く、商品化まで長期間が必要。そうなると商品化までの収入がないという厳しい現実があります。


引き継がれるポリシーと技術

1946年にスタートした当茶園ですが、1976年に2代目茶匠である藤迫健一に引き継がれました。

 

1945年に日本は敗戦し、何事も(政治・経済すべてにおいて)アメリカの政策によってなされていました。

 

そのひとつが、農薬と化学肥料による大量生産・大量消費政策です。農薬や化学肥料の被害は、当時アメリカ国内にとって深刻な問題でした。アメ リカ国内で多く使用させることは、世論を敵に回すことになってしまうため、国内使用はなるべく少なくしなければなりません。

 

しかし、農薬販売会社・医薬品販売会社などの化学合成剤販売会社であるケミカルメジャーにとって、売上を大きく落としてしまうことは死活問題となります。 そこで目をつけられたのが、敗戦国である「ジャパン」です。

 

自国での販売は無理だが、敗戦国である日本へ使用させれば良い。この現象は今もなお続いています。

当茶園も例外ではありませんでした。

 

ある組織による茶の買取があるのですが、すべては「いいなり」です。農薬や化学肥料を買わなければ、買取してもらえないし、融資も受けることも出来ませんでした。2代目の健一は、その状況に「否」を唱えます。

 

「農薬や化学肥料は身体に悪い。しかも環境も破壊する。売上があがるからといって、そんなものを撒いてよいのか?」 と農薬や化学肥料に対して疑問を持っている途中に、健一自身が農薬被害に合い、死の寸前まで追い込まれてしまいました。1977年(昭和52年)のことです。

 

そこで健一はついに決意します。

工場内の製茶機械

約50年以上も前に導入した製茶機械を今もなお使用しています。

「機械が、まだまだ活躍できると言っている」

日本人の心。人に対しても物に対しても、そして自然に対しても大切に対峙することが必要と考えます。


ケミカルなもの(農薬・化学肥料)を絶対に使わない!

 

1978年、最初の一歩がスタートしました。

農薬と化学肥料を止めたとたん、病気が蔓延。収穫量も極端に落ち、それよりまして茶の味が悪く、買取りもタダ同然でした。

それでも農薬や化学肥料は使わない!そう強く心に決めたのです。

 

周りからは

「健ちゃんは馬鹿だなぁ・・・もっと利口に生きられないかなぁ・・・」

「硝酸態窒素使わないって・・・それじゃぁお茶育たないし。ほんと馬鹿だよ」

などと揶揄され、ほとんど変人扱いでした。

 

まずは土を電気分解させ、残存する農薬や化学肥料成分を取り除くことから始めました。一刻も早く自然の状態に農園を戻したかったのです。

約8町ある農園の電気分解にかかった費用は約2億円。どうにかこうにか資金を調達しました。

 

しかし、まだお茶の製造が出来るわけではありません。その後、約7年、お茶園を「放置」したのです。草は生え放題。 虫は跋扈する。 お茶は生育しない。

 

周りからも言われます。

「藤迫さんの茶園は、草も生え放題でなぁんもしとらん。気でも狂ったか、もうお茶の生産はしないことにしたのか」

そういうことを周りから言われても動ぜず、耐えて堪えて・・・・。

やっと商品化が出来たのは、8年目の茶のシーズンでした。

 

「おぉ、やっと戻ってきたか!」

 

そうです、少しずつですが、やっとお茶の生育状況が好転してきたのです。

お茶の花 
白い花びらに、黄色い雄しべが特徴。お茶の木は、自らの種の保存継続を行うため、他の土地から飛来してくる花粉と受粉することにより、より環境にあった種として、古代から生き続けて来ました。10月~11月にかけて「茶実(ちゃじつ)」を実らせます。


お茶本来の力で育てる

お茶は、お茶に任せる!

健一はこう感じ取りました。

要は、お茶の生育は、すべて自然の力に任せるということです。

 

農薬や化学肥料に頼る必要は元々無いのです。

ただ、自然に還っただけのこと。

 

そして、その生産方法で生育させたお茶は、1986年、農林水産大臣賞を取得するまでに品質が高くなっていました。

  残留農薬検出試験

「全ての項目で検出せず」


ここまでなるのにかかった年数は、実勢栽培を開始した1946年から実に60年近くかかりました。

 

巷には、休耕5年で「無農薬」をうたう商材が数多ありますが、当茶園は歴史が違います。

 

そして、このお茶園は、四方を大きな山々に囲まれ、周囲からの飛散毒物から守ってくれる環境にあり、また、北西から流れる風が、南東に位置する桜島や霧島からの火山灰を寄せ付けません。 日本国内でも、ここまで守られた茶園環境は皆無でしょう。

 

1946年より、実生栽培によりスタートした当茶園ですが、種を植えて69年(2015年現在)経過しました。

 

その種は、古来の遺伝子を引き継いできた、品種改良など行われていない希少な種です。

 

栄西が中国から茶の種と製造方法を持ち込んで普及していったのが、日本茶の始まりであると言われていますが、当茶園が位置する熊本県相良村四浦(ようら)地区は、日本での有数の古来茶(ヤマチャ)が自生していた土地だと言われています。

実は、栄西が持ち込んだのは、「中国式の茶製造方法(青柳製)」だということが、最近になってわかってきました。

栄西が記録した喫茶養生記には、栄西自身が普及させたように記載してあり、それを現代ではそのまま踏襲して理解されています。

しかし、冷静に「本当に日本には、栄西が持ち込むまでお茶の木はなかったのか?」と考えてみてください。

実は、相良村がある球磨郡の歴史書「球磨郡史」には、以下のような記載があります。

 

「・・・・しかし、それより約500年も前の聖武天皇の時代(西暦701年~756年)より、日本では「薬用」としてすでにお茶が存在していた」という記述も存在しており、冷静に鑑みた場合、「日本には古来よりお茶が存在していた」という蓋然性は高いと考えられます。

【球磨郡史上巻P245】

 

聖武天皇の時代とは、栄西が活躍する時代のおよそ500年以上も前です。

その時代の記述に、すでにお茶が出てくるということは、多分、日本全国の山という山(特に東京以西)には、ヤマチャが自生していたと考えるほうがより自然です。

 

例えば、当茶園では「ヤマチャを使用した半発酵茶(烏龍茶)」を製造しております。しかも、2代目の健一が初めて製造開始したのは、今から少なくとも20年以上も前です。

無農薬の意思を引き継ぐ智(L)と健一(R)

しかし、ある農家の方が「日本で初めて私が烏龍茶を作り始めました」と言われて、現在ではよくオーガニックショップで販売されています。

「私が初めて」と言ってしまえばそれまでです。多分、栄西の喫茶養生記の記載もそれに近いものがあったのかもしれませんね。

 

当茶園の周りには、お茶以外にも「かきどおし」「ヨモギ」「ナルコユリ」などの、和漢方でよく使用されている植物も自然自生しています。

 

また、ゼンマイやワラビなどの山菜も多数分布しており、シーズンになると、皆でお茶園に行って、ゼンマイ・ワラビ・だらの芽などの山菜を取って、工場へ帰り天ぷらにしたりして食します。

 

また、新茶のシーズンだけの特別な食べ物としては、「新茶の天ぷら」があります。

これは、生茶をそのまま食するので、確実に「無農薬栽培茶の葉」である必要があるのは言うまでもありません。

 

お茶だけでなく、自然の姿そのままで生きている当茶園。

 

時期によっては、キジなどの野鳥、シカやウリボウなどにもお目にかかれますよ。